MY VISION
デザイナーという枠からはみだし、不動産会社のオーナー歴20年超からの、自由人。空間のエネルギーのみならず、その土地のパワーをカタチに!
ふと「あぁ、祖母たちから引き継いだことを誰にも伝えなかったな」と気づいたので、霊性とか、エネルギーを読むってどうなんだろう?と仕事との線引きが難しかったのですが、
不動産や設計の相談にとどまらず、氣を読むチカラ、想念を読み解く能力を頂いて育ちましたので、方位や暦触れ、『いつ・どの選択をすれば現実が動くのか』や移動の時期やその方法をお伝えして四半世紀過ぎました。
明確に示す高次意識を突き詰めた結果、ロサンゼルスの海岸沿いの邸宅で仕事をしている際、ご縁あってバシャールとの1対1の対話に辿り着き、その後ロンドンでの仕事を頂戴した際に、時間的拘束や行動できる範囲の制限があり、観光やショッピングにて時間を潰すことが難しかった際に、サイキックスクールの研修を受けてみたところ、ピタリとハマったのでその学びを重ねました。
それから、ハワイでの仕事が滞在が長期に渡りましたが、たまたま西麻布の事務所のお隣が、ハワイのセルフアイディンティティ分野の拠点だったことから、イハレアカラ・ヒューレーン氏の指導やボディトリートメントについての識学を手にいれ、自身の内面を磨く、という手法が楽しくて、そういう世界に夢中になりながら、空間設計を生業としていました。
たまたま、親族が文化芸術を通して政界やメディアに精通していたことから、【日本でも極めて稀な“人生の決断の分岐点を読む実力派】という肩書きを頂戴し、ルーツの皆さんから継承した易や方位やその方のエネルギーや方向性を観ていましたが、その件についてはつい最近まで黙っていました。
エージェント曰く、政財界や文化・芸術分野で高パフォーマンスを展開する方々をはじめ、その存在や影響力の大きさゆえ、特別な配慮が求められる方々からのご相談も多く、財務・資産・進退を含む重要な判断について、長きに渡り厚い信頼を寄せ続けられてきました件、について、揺るぎない判断力と確かな納得感、想いを受け止めながら丁寧に紐解く包容力がある、とのことで、まぁこういうのは、人のことは観れても自分については不明なことだらけなので、混沌とした世の中で、自分の役目が終わったと感じたタイミングで、東京を離れました。
その後、霊性が高いと信じていた実家のある街に戻りましたが、それこそ「偉い目!」に逢いましたので、尻尾を巻いて、実家仕舞いをして、また東京に戻り、また2000年頃と同じことをしています。
フルネームサイトでしたが、このURLも残そうと思って、残すことを目的にしたサイトにしよう、と思って書き連ねることにしました。宗教が怪しい、という時代から、クリアなエネルギーで本来の宇宙の仕組みの風を掴む、波に乗る、大地のパワーを受ける、という正しい波動を得ることが真実であり、それらに同調した波動から始まる動き、は安定した愛や喜びにつながる、と人々が受け入れ始めた時代になったからです。
不動産・デザイン・リノベーション・再販する、という仕事は、方位、土地や家屋のエネルギー。滞り、邪気や宿り、誤った波動を生み出した空間はいづれリセットを望みます。そこを片付け、作り直し整え、新たな息吹を吹き込む。そんな仕事を重ね、1990年代ではまだ数少ない女性創業社長というのを20代の終わりに開始して、20年継続しましたから、あの頃としては何か大いなる力に支えられなければできなかった偉業、と振り返れば思えるから不思議です。
家族を作るとか、子を育てる、という体験をせずこの年を迎えたのも、何かそんな気がしていて、自分なりに受け入れられた流れ、でした。
体験こそ全て、旺盛なチャレンジ精神をそのまま実現しまくり!億単位のお金を動かすことに慣れましたが、世間的には「何かある?」的思惑を得て、最高機関からの嫌疑を頂戴し、4年も冬眠状態、という体験も致しました。
晴れて堂々と、の通知を得た際、同様の体験をしつつ自ら消えてしまった仲間や知人を思うと、両手をあげて喜ぶ、という感じには慣れませんでした。国家権力や集団でのイニシアティブは、誤った方向に流れて、人柱を立てて、イメージ的にはジャンヌダルク、を喜んで引き受ける方も多いようですが、エネルギーを読む観点からすると、裏方、黒子が一番性に合っており、あの時期冬眠できたことは、今となっては十分な休養であり、癒しの時期だったと感謝しかありません。
晴れの日もあれば大雨、嵐、積雪が激しい時もありますから、私の中の最上の愛を進化する多くの方々のために、美しい振動を放っていられることが役目、と捉え、現実世界の物質に興味を示すのではなく、それらが美しく輝くための空間のエネルギーを整えてこそ、美が輝く!と思いながら、大きな空間のデザインを続けました。
あの頃考えたイメージが、続々と世界中の美しい場所の穏やかな建物の中で氣を整えてくれているかと思うと、安堵と幸福な気持ちに包まれるから不思議です。
あの頃があって、今そう思える。このズレ、についての理解も、人生を生きやすくするかなりのポイントです。ここまで読んでくださった全ての方が幸福と豊かさに包まれますよう、このページにそんなエネルギーを込めて、アップします❤︎
QUALITY
八百万の神がいる国にインスパイアされた10代
地域柄というか、父の仕事の関係で、神様が普通に身の回りにいました。
父親は、徳川家光公のお墓のあるお寺に勤めていました
昭和の終わりなのに、着物を着て下駄を履いて働いていました
書道を嗜む人で、日展作家でした
旅館がたくさんあって、床間に自作のお軸を掛けに行くのについて行っていました
大人になったら、お医者さんと結婚してピアノの先生、または旅館に嫁いでおかみさんをやると思っていました❤︎
昭和に身につけたことを大事にしながら進化してきたつもり
ポートフォリオ的に記します♪
幼少期 日光の社寺
修行の旅の途中で倒れてしまった栄海サン。曽祖父にたまたま道端で拾われて祖母の家で静養し、祖父に連れられて目的の寺に辿り着いたのは、予定を2ヶ月過ぎてから。そこから猛烈な業を重ね、第252世 天台宗座主 を務めるまでの大出世。この寺に相当な功績を残した方です。衰退した寺の再開の扉を開けた僧、と聞いています。
栄海サンの孫は男の子(仲良しだった照ちゃん)でしたから、第二の我が家の、寺に勤める身近な正友(父)の第一子で女の子、ってことで随分と可愛がってくれたようです。
生まれたての女の子は、祖母の喜びと共に、英海サンが名前を付けてくれました。明治100年生まれなので明子(メイコ)。なのにどうしてアキコと呼ばれる日が来たのかは、父にも謎です。
小中学校 日光国立公園
幼稚園の制服を脱いで、ちゃんと着替えて、雪遊び。
雪で楽しそうに遊んだせいで、その後スキーの特訓が始まってしまいます。
国宝の探索三昧、で、みなさん愛情深く丁寧に接してくださって、その都度私どものハテナに答えて下さり、まぁ、とにかく研究資料の作成に勤しみました。幼稚園生、なのにです。幼稚園時代はロッテンマイヤー先生みたいな高橋先生がずっと一緒でした。これも何故かは謎。
伯母の家の玄関にて 日舞でお稽古されているお行儀、のポーズはキマっていますね
それからずっとお稽古と研究と学校。学校は個性の強い男の子がいて、馴染めませんでした。
二荒山神社のお祭りのたびに、境内で日舞を奉納、決められた祭事の伝統に沿った舞を披露していたようです
下の写真は、ひまわりの研究で小学校2年生の部で表彰された後にNHKに出演した時。父が着物ではなくスーツを着ています。初めて見たスーツ姿かも。結構キマっていて、東京に連れて行ってくれる父が大好きでした。
3年B組金八先生、というドラマがあって、校内暴力や10代の妊娠、が放映されていましたが、そんな時代。黒板に納豆が投げられたり、みかんが飛んだり、消化器を撒いたり体育小屋が燃えたりしましたから、授業は成り立たず、といったイメージだったようですが、学年が下の我々のクラスはそれでもなんとなく授業は成り立っていました。ただ、大人のイメージはそうは捉えていなかったので、メディアによる印象操作って怖いなとテレビに対して感じた最初の出来事です。
喫茶店はバイク乗りが集まる店だったので、レースを見に行ったり、走行会について行ったりしました。中学生だったので、経験を共有する同級生は一人しかいませんでした。
放課後は、喫茶店にいる子でした。部活を辞めて、鍵っ子だったからですが、学校の先生のお子さんで年上のお客さん、に勉強を見てもらったり、その店の伝言ノートの表紙を描いたりしていました。
私の絵を楽しみにしてくれる人が増えて、毎回構図を考えたり色彩を選ぶ作業が好きでした。
高校時代 入間&福生
結局、全国から2名ずつくらい集まるボーディングスクールに進学したので、15歳の春から寮生活になりました。
そこでの出会いはいまだに続いていて、たった一年同じ寮にいた2つ上の先輩との交流や、寒くない土地での暮らし、というのを味わうことで、囚われていた何かから解放された気持ちになったことを覚えています。
10代半ばの自分、弥生祭がたまたま土日で戻り、父が袴姿のまま車で迎えに来てくれたことが印象的でした。
高校では、英語劇に時間を要して、舞台監督だったので丸暗記ではないけれどセリフをある程度覚えないと、視覚的に舞台がチェック出来ないことに気づいて、英語に没頭の日々を送りました。。。役が付いている方にはその部分だけ覚えれば良い、というタスクですけれど、監督って、一応やることあったんですけれど、わかって貰えず不愉快極まりない立場、を経験した最初の出来事です。しかし今なお超仲良くしている1つ下の後輩は、これがなければ関わりませんでしたから、人生って不思議です。
この時期、オケ&JAZZ聴きざんまい。今の私の骨子。
福生にビックバンドが来るたびに通って、家に帰省するたびに頂いたレコードをカセットテープにうつし、ソニーのWALKMANを手にしてクラシックに飽きるとビッグバンドを聴く毎日。
テレビのない寮生活は、予想以上に快適でした。自由もあって、不愉快極まりない人の念、みたいなものは諦めて、先生に反発しながらあまり喋らず好きなことをして生きていました。
大学時代 西麻布&江古田
時々、晴海の展示会場でナレーターをしていました。今と違ってこの頃は暗記力は抜群だったので、本物のナレーターの方が具合が悪いなどキャンセルすると、代理店に勤める叔父から仕事が回ってきました。ピンチヒッター的なポジションでした。
朝迎えが来て暗記して、商品の説明をして着替えて食事して帰るだけでしたが、憧れの職業だったようで、なんであんたが!とよく言われました。スミマセンて感じで、やりたいことが実現するわけではない、と与えられたことをこなすのが人生、みたいに捉えて人助けだと思って、大人が恥をかかないように協力する、と言うスタンスでした。
ディスコブームだったので、ジュリアナを貸し切ってイベントを仕切っていたのを覚えています。これは楽しかった。いつも裏方。成人式が実家のある街で行われたのでそれに参加し、その後最終列車で東京に戻り、六本木のディスコに行ったらシャンデリアが落ちたのでビビりました。
10mくらい離れていたので音に驚いただけでしたが、その後深夜に東京の友達と合流するスケジュールだったので、西麻布のアジトに戻って、そのアジトのことは人には言わずにいたのでどこから来るのか、荷物は?とよく言われましたが、全部明かさないのも我が人生ってことで、成人式も終わったし、春からは自立しようって思った夜でした。
テニスとスキーは、随分鍛えてもらいました
大学時代後半 南青山&銀座
AB ROADからじゃらんの立ち上げが決まり、その創刊スタッフになったので、月曜日にフライトして木曜日に戻る香港行きの仕事は終わりになりました。残念。香港が大好きでした。会社持ちの経費で新橋の駅前のビルで広東語を習っていたのを辞めて、ケイコとマナブ関連でデザインスクールの夜学に通いました。これも実験。
クラシックの楽器は全然ダメで、、じゃらんの創刊から発行の際にシステム進行課になったので、父を観光地のホテルの広告募集の下請にしました。お弟子さんがたくさん広告を出してくれて、社長から賞を何度かもらいました。学生で営業職ではないので、特別賞でした。頑張ったのは父なので、父にも車を買ってあげました。
その後、 政治・経済ジャーナリストのアシスタントをするようになり、そのポジションが好きでした。リクルートでのバイトも慣れて、ルーティンがしっかりできて、音楽で食べて行けなくても食べられるスキルを積んで東京で自立して生きようと決めました。