ABOUT ME

自己紹介

経歴

 
1968年 日光市生まれ
1997年 インテリア・デザイナーとして独立、活動開始(29歳)
1999年 不動産会社経営(31歳)
2003年 一級建築事務所経営(35歳)
2004年 建設会社経営
2019年 有限会社寺村伝次郎酒店 取締役 筆頭株主(現在に至る)
2020年 株式会社100%株主として経営20年目標を達成
2021年 スローライフ スタート(53歳)生まれ故郷日光へ移転
2022年 さおとめあきこ総合研究所 開所 
     不動産と建築に関する調査 執筆 データ作成 をノマド的に
2024年 本拠地を港区に戻したうえで総合研究所 継続
 

資格等


:二級建築士 宅地建物取引士 建築施工管理技士 
:インテリアデザイナー・空間プロデューサー
:不動産・インテリア関連 ジャーナリスト
:ライフスタイル・コンサルタント
:宅建マイスター 不動産コンサルタント

 

AKIKO SAOTOME

Born in 1968 Nikko,JAPAN
established Architecter Inc in 1997
It is under activity mainly about Interior desgin
Mainly creating Beauty and luxury space for hotels, golf courses…
 
日本不動産ジャーナリスト会議 会員
日本デザイン学会 学術会員
不動産ジャーナリスト大越事務所 所属
社団法人日本インテリアデザイナー協会 元関東事業支部副支部長
JETRO主催 経済産業省支援 ジャパン・デザイン・プレミオ@ミラノ 出展デザイナー
東京デザイナーズウィーク 10年連続PRO展 推薦枠 参加
1999〜・専門家プロファイル Q&A回答集
2001〜・新聞 LIFULL HOME'S連載記事
2008〜・All About カーテンガイド 掲載記事
   ・上場企業顧問 業務委託等開始
2014〜・LIFELL HOMES PRESS掲載記事
2015〜・著書 中古マンションかしこい購入&リフォーム術 ジャパンデザイン50 他
2017〜・月刊不動産流通 連載執筆 
2018 ・有楽町 豊洲 イベント JAPANTEX2023 基調講演
    ・京橋 T社様主催他 デザイン・トークショー
2019.4・表参道 H社様他 企業研修
2019.3・大手町 商団体 企業セミナー
2020〜・オンラインセミナー 上場企業での記事監修者
その他、守秘義務契約締結のため、記載できない内容が多数ありますので、ご質問等ございますかたは都度お問合せ願いたく存じます。 

 
さおとめあきこ総合研究所 
所長 早乙女明子

Work

作品履歴

広尾レジデンス 仲介

広尾 分譲レジ リノベ設計

広尾 分譲レジデンス

恵比寿駅前のレジデンスの大規模改修

恵比寿駅前賃貸レジ 内装設計

恵比寿駅前賃貸レジデンス

恵比寿駅前賃貸レジガラスブロックデザイン

恵比寿駅前賃貸レジブラインド設計

南青山ショップ

新宿南口商業施設

新宿南口商業施設

西麻布ショップ

プロメモリア・特注椅子

新宿商業施設

虎ノ門 レジデンス

銀座 商業施設

高輪 戸建て

中目黒 インドアゴルフ

銀座 商業施設

銀座 商業施設

熱海 ホテル

箱根 商業施設

中目黒 商業施設

虎ノ門 商業施設

千葉県 個人邸

軽井沢 ホテル

ゴルフ場浴室

目黒区ゴルフレンジ

銀座 商業施設

晴海 レジデンス

新宿 商業施設

シュミュレーションゴルフ室

シュミュレーションレンジ

エステサロン

エステサロン

美容施設

壁面収納設計

美容空間エスキース

造作家具設計

ミラノサローネ取材

ガラ・チャリティー

ジャーナリスト会議

講演

All Aboutガイド

JID関東副支部長時代

酒屋の女将としての行事

ABOUT

自分の過渡期、チャンス、強運

山本夏彦氏が編集長だった、室内にリフォーム事例を載せていただいたこと

山本夏彦氏の名前を敢えて書かせていただく。かつてはおこがましいかな、って遠慮していたけれど、山本夏彦氏は偉大だったし、尊敬に値する編集長だった。(氏を知らない人のためにwiki)憧れの存在でしたから、室内空間の学びのための当該誌に掲載されるなんて、しかもこれから特集を組んでいくリフォームという新しいカテゴリで取り上げてもらえるなんて、そりゃ、嬉しかったものです。
ワンダフルなことって、その時はその文章がどうだこうだ、自分で良いのか、これで良いのか?ってので頭がいっぱいになって、素直にバンザイできないのが私なのですが、デザイン業界の色々なことがまだ全然わかっていなかったんだということがよくわかる文章で、そんな自分の歴史が残るから、取材されるって良いことだな、と感じた、そのことで取材する側の役を依頼された時は断らず、その方の今を、未来に読んだ際に思い返せる最良の言葉選び、をしたりするのは、この経験から。

月間不動産流通にワンストップサービスについて事例を連載させて頂けたこと

不動産取引を港区で長年行いつつ、中古売買に伴う修繕からリフォーム、リノベーションを手掛けて20年を超えた頃、不動産・政治ジャーナリストの大越氏と出会い、不動産&デザインジャーナリスト、としての活動が多忙に。その一連の流れで、月間不動産流通に連載を書かせていただくことになった経緯、その当時はまだAll Aboutのガイドだったり、HOMESのウェブライターだったりが、あまり認知されておらず、それなりの大人の間では紙媒体のほうが優位だったけれど、自分としては、ウェブメディアでのライティングが増していった。とはいえ、今なお書いていますけれど。

 

日本実業出版社からリフォームと仲介の実務書を出版依頼いただいたこと

西麻布でリフォームと仲介の会社を経営していて、常に仕事に恵まれて忙しかったのだけれど、そのオファーを受けた。リクルートで出版の仕事をして依頼、ジャーナリストとしての実務も続けていたため、書き溜めた文章があったことが幸いし、中古マンションの賢い購入方法は?と尋ねられた記事を提出したら、凄くいい、と当時の常務に気に入って頂けて、2000万程度の住宅ローンに留めて購入し、完済したらステップアップする住まいの選び方を書き上げた。新築高額物件、フルリフォーム物件が流行ってからは、その考えは廃れたけれど、2023年の今、改めて再考されて、中古市場でこの本が出回っていることは幸い。増刷ではなく、読んだら次の人に一円で良いから回して、ってかつてのブログに書いたこともウケて、時々読者の方にお礼のメールなどを頂けるのも幸せ。
 

ミラノサローネに出展したら良い、とお誘いを受けたこと

正確にはミラノデザインウィークのサテリテ、ピアトルトーナ エリアへのJETRO主催、経済産業省後援の「TOKYO DESIGN PREMIO」で、今思うと素晴らしい機会だったと、自分の人生の避けては語れない一コマ。
不動産を好きなように直して再販する社長業、だったのだけれど、人に恵まれていたこともあって、いい師匠、いいスタッフ、いい職人さんとの出会いが幸運を招いてくれたのかもしれない、出来上がった空間は常に即売できたし、いいデザインだとお褒めをいただくことも多く、でも自己肯定感が低い私は、常に納得はできず、次へ、次へ、とゴールが見えない模索を重ねていた。でも、デザイナーの先輩二人に誘われて、ミラノに作品を送って、自分も行ったのよね。観光ではないイタリアへの渡航。色んな意味でものすごく学びがあって、向上心がピンと上向きになって、そして今があるって感じ。
とにかく関わった全ての方に感謝しかない、というのが本音です。
 

和の文化に触れて育ったこと

父が日光山輪王寺に勤めていたのは、曽祖父とご縁のあった門跡の存在。
我が家のルーツは少しユニークで、祖父は景色を見て後ろに下がったら路面電車に跳ねられてなくなるという生涯で、若くして父親を亡くした私の父は、一度東京に就職のため上京し、その後日光に戻っています。
父は曽祖父に似ていたようで、書を極めました。
栃木県だけではなく東日本書道連盟で大役を担い、日展作家として晩年は書家として生きました。
母は、若山牧水先生の孫弟子にあたり、短歌を嗜み、箏曲の世界では名取として舞台に乗ることが多く、義姉と共に茶道や華道の発展に寄与しました。
お寺や書道、茶道といった和の文化に触れる機会が多い家庭で、私自身は足が悪かったこともあり、補正のために日本舞踊を習っていました。
画像は、小学校1年生の時の舞台で「羽根の禿」を踊った時のスナップです。

SWING & SWING

音大時代に、同級生の叔母さんが福生にお嫁に行っていて、お友達と訪ねた白いハウスに、魅了されました。
ジャズボーカルを習う機会があって、その頃はあまり何も考えずにスイングできたんですよね、でも大人になって頭で考えるようになったら、なんだか上手く歌えなくなって辞めちゃいました。
同様に、小さい時に大伯父に連れて行ってもらった近くのカントリー倶楽部の子供ゴルフ教室、女で子供で左のクラブなんかあるかー!ってことで右打ちゴルフも、なんとなく振れて、大学時代はバブルでしたし勤め先のリクルートにはゴルフ部もあったので、左利きなのに、ゴルフだけ右のまま、仕事帰りに先輩たちと豊洲で練習しました。
その頃の湾岸エリアは、ゴルフの練習場だけポツリとある感じだったので、街の景色も変わりました。
OGの「かもめレディース」は50回目に参加させて頂き、それでフィニッシュ、歴史ある会社のコンペ、復活しないかなぁ、と思ったりしますが、仕事もずいぶんしたので、ジャズボーカルとゴルフ、というスイングを楽しむ日々を謳歌したいと思っています。・・・そして時々、お仕事。

 
 
看板は、買い取った際に新しく描いています
古そうに見せる技法を用いました
 
看板掛け替えの際に交わした書類は手元に保管♪

日光に戻ったことで学べたこと・・・

不動産と建築デザインの総合研究所を仰せつかって開所しました。
実家と東京の事務所を行ったり来たりしていましたが、ノマドでできる仕事がありがたいです。若いスタッフのIT力も凄くて。
それ故、日光滞在比率が高くなりましたが、ある時非常に無礼な目にあいました。された私は気にしていませんが、そういう方々が上席にいる街ですから、不要なトラブルが生じており、諸般の問題を知る機会となりました。
 
酒屋は、当初専門職ゆえの担当として士業で関わった関係性でしたから、今なお(2024年4月現在ひとり取締役)このポジションにいること自体予想外でした。
 
当然、お役目が終わったら関係者にお戻ししようと思っていましたが、当事者の逮捕、被疑者死亡、引き継ぐものの不在という状況につき、こういうこともあるのだという学びを得ました。今後に生かしたいと思うことが多く、なかなかできない体験ですが、誤解は困ります。
 
勝海舟殿ご用命の酒屋ですから、容易に絶やすのもどうか?と思いホールド状態です。時代に沿って「事業改善」の流れとなり、観光地で現状を打破する実験のような取り組みになって、いろんな方との出会いもあって、継続に取り組んでいますが、なかなか難儀です。原因は誤解と私利私欲の面々の自己肯定感の低さゆえの要らぬ不安から生じる議案の山といったところでしょうか。
 
私が買い取る前の酒屋は、オーナーがお人好しに身内の保証人として失敗、という形で質流れ寸前・・・でも、お人好しって、大切な要素だと思います。事情があって、そうしたわけですから、裏切られたことを味わう人生も、あるんだなって事で。そして、それを予定外に引き継いで、「私もお人好し」の仲間入りを果たし、無駄にいろんな経験を重ねています。
 
いづれにしても、経験こそ宝。この娑婆にいろんな体験を味わうために降りてきた、とでも思わない限りメンタルは持ちませんが、そのおかげでずいぶん対応方法に長け、おかげさまで多くのお仕事を頂戴する運びとなっており、感謝いたしております。
 
人間は、『経験』したこと、読み書き=『学んだこと』から得る想像力が「ある方とない方」がいて、『ある』人が話すことを『ない』人が聞くと、ある人が予測している幸せな未来に辿り着かず、ない人独特の不幸な思考の世界が展開されて、とんでもない嘘話にたどり着くことを、身に染みるほど味わいつくした末路は、意外と幸せで平和で穏やかなものです。
 
話していることが、毎度変わって行ってしまう人、とは、どうお付き合いすれば良いのか、エビデンスを大切に扱う総合研究所を司る私には、全くわかりません。
 
日光という街には、神が宿るわけで、商売よりも、年に一度の祭事を優先する、そんな心豊かな人々と関わりながら暮らすことにも疑問を感じ、この街を後にすることにしました。
 
商売より祭事優先の方もいます。人それぞれですけれど、学校もお休みになるほどのお祭り事は、現代においてどの程度保全するべきことなのかについても客観性をもって接すべき事案と思われます。
 
かつてはこのような祭事を大事に扱って、心にゆとりを持ち、お金ばかり追いかけるのではなく、バランスよく生きること、に思いを馳せてUターン故郷暮らし、を選択しましたが、今はそうは思えず、重複しますが客観性をもって接すべき事案、祭りとはいえ土下座を若者が強いられたことに苦悩する時代だということも意識しても良いのではないかと思い、2024年春、改めて東京に戻りました。
 
お祭り事はミステリアスで神秘的で、ワクワク現実逃避には良いもの。クリスマスのサンタさんの存在にもに似ているかもしれません。
夢のあるお話、として後世に紡いでいけたら良いとは思いますが、リアル現代、が好きな私は、それらの体験を糧に、改めてセントラルな場所で現行の法令に沿った仕事を重ねる、そう改めて決めるに至る体験をさせてもらえたなと、母が倒れていた介護の2年を至福の時と思いつつ、もっと快適なコンフォートゾーンが自分には合っている、と判断し、浦島太郎になる前に、娑婆に戻りました。ブランク分そのうちスパートをかけようと、ジャンプする前のしゃがんだ状態、って感じでしょうか・・・ 

2024年春、改めて港区にて

私の身近な面々は、本でも書けば?と、わが人生を面白がります。大学時代、キャサリン・グラハム氏の『わが人生』を熟読しましたが、登場人物が快適なほうが良いな、という感想を持ちました。
 
私の人生は、オリパラを経てコロナ禍の混沌の時期、びっくりの連続がずいぶん続きまして、がっかりすることが多かったというのが本音です。
そして、ふと、思い出したことが『そっちじゃないよ、こっちだよ』という合図が通じるまで続く、道を外れるとそれを知らせるために、事故や不幸が舞い降りる、ということでした。
 
そういう迷信的なことに蓋をして生きていましたから、合理的にシステマチックにと追及し、神秘的で見えないものの存在を避けた結果、意図せぬポジションにたどり着いて、うれしさとはかけ離れたしんどい成功、という現実と向き合っていました。
 
それらを乗り越えていますから、本にしてみれば、というお声を頂戴するのでしょうけれど、今書いたら、かかわったほとんどの方は恥をかくでしょうし、暴露されて残念な気分になるのはそのご家族でしょう。
 
『殿方に恥をかかせない』ことが肝、だと教えてくれたのは橋田寿賀子氏がおしんを書き上げた際に滞在した宿の大女将で、銀座で何度もお仕事を頂戴し、重ねておもてなしをして頂き、そしてたくさんのことを教えてくださいました。
 
この経験は自分の胸に温めておきたい珠玉のストーリーですから、人様に恥をかかせて稼いだりしません。
この大女将ほか、多くの昭和の影の立役者に触れる人生でしたから、たくさんのいい経験をこの先味わうことが出来たら、回顧録的なわが人生を記そうと思っています。
 
今は、いったんドロドロに溶けて変性しなおしている、というところでしょうか、さなぎが蝶になるが如く、変態を遂げるべく、紡ぐのではなく、作り直した自分、という感じで改めて首都にて与えられた役割を果たそう、そんなタイミングなのです。選んでくださった方々、ありがとうございます。
 
2024年4月記