MY VISION
昭和に身につけた、この国の良い習慣、
自分の中からアウトプットしてみたいと思いました♪
ふと「あぁ、祖母たちから引き継いだことを誰にも伝えなかったな」と気づいたので、仕事のフルネームサイトでしたが、このURLも残そうと思って、残すことを目的にしたサイトにしよう、と思って書き連ねています
不動産を購入してデザインしてリノベーションを施して再販する、という仕事が面白くて、大学を卒業してから、ずっと働いていました。1990年代ではまだ数少ない女性創業社長というのを20年継続しましたから、家族を作るとか、子を育てる、という体験をせずこの年を迎え、
QUALITY
八百万の神がいる国
地域柄というか、父の仕事の関係で、神様が普通に身の回りにいました。
父親は、徳川家光公のお墓のあるお寺に勤めていました
昭和の終わりなのに、着物を着て下駄を履いて働いていました
書道を嗜む人で、日展作家でした
旅館がたくさんあって、床間に自作のお軸を掛けに行くのについて行っていました
大人になったら、お医者さんと結婚してピアノの先生、または旅館に嫁いでおかみさんをやると思っていました❤︎
昭和に身につけたことを大事にしながら進化してきたつもり
長文 区切らずに記します
大学時代にいきなりリクルートに勤めたことから、いろいろ思いつくのは大事なんだと信じて、やりたいことを実現しながら生きてきました。当時としてはかなり進化した近未来みたいな企業だったので、同世代の人とちょっと違う社会人生活だったんだなと、今になって答え合わせ、みたいに感じます。
親元を離れ寮生活をしていた高校時代に、バイクを手に入れました。わざわざ160キロ乗って原チャリで会いに来ててくれた幼馴染がいて、彼は何故にそんなことをしたのかわかりませんが、寄るところがあると言って、電車で帰りました。
馴染みの喫茶店のマスターに事情を話し、バイクを庭の軒先に置いて貰いましたが、免許も持っていたし、鍵もあったので、誰にも言わずに乗っていました。
福生という街にそれ(原チャリ)で通い、これまた誰にも言わずに家具屋でバイトを始めました。暇でした。そこには、たまにボスがいて、凄い形相なんだけれどチャーミングな不思議なおじさんで、本を忘れて置いていくので、その本をよく読んでいました。まだ、あまり多くのものに溢れていない時代で、時間がとてもゆっくり流れていました。
馴染みの喫茶店のマスターと同級生が仲良くなって、その舎弟と私が仲良くなったので、4人で喫茶店が終わるとデートをするようになりました。同級生は叔母さんが福生に住んでいたので、そこに外泊許可を取って夜の福生をウロウロしましたが、まだ山田詠美さんなどが登場する前だったので、一線を画していました。
赤線に行くとバイト先のボスに怒られるので、ボスやボスの知り合いと行く以外は行きませんでした。所謂「福生であの時代を過ごした」人とは、ちょっと違っていて、高校生ですから、たかが知れています。
福生では、異人種交流には、私は全く縁がありませんでした。でも、仲良しの何人かは国際結婚をしたり、基地の中にステイしたりしていましたから、ビッグバンドが慰問に来ているときなどは、演奏を聴きにベースを訪ね、オープンベースの際バイト先の人とお客さんの店に寄ったり、花見の日にはゴザに座ったりコミュニケーションはとって、スーパーで買い物したり、普通の地元の楽しみ方、を味わっていました。
全然問題は起きず、高校時代を自由に福生で過ごしましたが、夏休みに実家からバイト先にマスターから貸与してもらっていたモンキーバイクに乗って出かける際に、車に撥ねられてかなりの規模の怪我をしました。入院して夏休みが終わっても寮に戻れず、クラスのみんなからお便りを頂く機会を得ました。バイクで事故ったとは言えず、体調不良という表向きでの入院。丁寧なお手紙への後ろめたさもあり、それ以降、あまり話さない人になった気がします。
福生にバイクで行くのはもう無理、というオチは、サガンという喫茶店のマスターの舎弟、強面のメンズと交際することで、自由業だった彼にクラウンで送迎してもらえるようになったからで、一度車で移動したら、原チャリでの移動は嫌になりました。
お世話になった家具屋のバイトを辞め、地元の日本人コミュニティの中での新しい福生での過ごし方に身を置いていました。
経年劣化するので、住んでいる人は普通にフェンスに白いペンキを塗ったり、実際に地味に作業していましたから、それを手伝ったりしていましたが、「スローなブギにしてくれ」が実写化され、観光地みたいになって来た頃、アメリカンな生活に、お別れの時が来ました。
一応学生なので、校舎が江古田に変わるからです
本業は学生ですから、5年過ごした入間での生活に別れを告げて、練馬に越しました。人との別れがせつなく「なく」て、
『キリの良いタイミング、新しいことがしたい』としか思いつかなかったことをよく覚えています。
ちょうど世の中のバブルが弾けた頃だったのでしょう、実家というか、母方の家業にトラブルがあり、私のことは、すっかり家族から忘れられたようで、ゆるい入間時代とは異なり、仕送りがない学生生活に突入しました。
これには相当驚きましたが、家具屋で店番する程度のペースでは暮らせず、仕方がないので働くことにしました。
運よく新聞を見て応募したら採用された新進気鋭の企業で、学生をしながら働きました。
そこはリクルートという会社で、学生なのにフレックスでフルタイム勤務し(なので22時くらいまで会社にいたりが普通でした)、その傍ら頼まれれば設計事務所で図面をトレースしたり、ミスドで朝働いたり、暗記が得意だったので土日はナレーションの場でも活躍し、
人のご縁はありがたい、と断ることなく、だいたい成し遂げていましたが、辛くなかったことが不思議でした。
当初、月曜日にフライトして木曜日に戻るという不思議な仕事があって、毎月香港に出向いていました。そう長い期間ではありませんでしたが、香港三昧でした。春休みや夏休みは特にそういうオーダー。
なぜに飛行機に乗って海外に行って戻ってくるだけで仕事になるのかわかりませんでしたが、いろいろタスクをこなして、まぁそれが取材だったのですけれど、ちゃんと調べたり訪ねたりをリポートして、普通に紙面が埋まっていくので、仕事でした。
さらに、お稽古事と習い事、学習をするとその費用が会社負担で出るというので、新橋の広東語学校に通い、お茶のお稽古を再開し、それでも時間が余るのでデザイン学校にも夜間の週2日コースに通いました。
お稽古事の学びの雑誌が出版されて暫くしたら、費用負担制度は無くなったので、リサーチだったんだなと後で知りましたが、語学は高額だったので、話せるようになってラッキーでした。
海外旅行雑誌から、国内旅行誌に部署が変わり、システム進行の担当になったら、暇になってしまいました。会社で過ごす時間がフレックス勤務時間内有り余るようになりました。
なので、フレックスタイム制からA職に降格させてもらい、朝学校に行き、学業はポンコツなので諦めて出席数のみをこなし、途中で抜けて昼間は会社に行き、夜になると銀座のクローズドの超高級倶楽部で週3日ママのお手伝いをさせてもらって生計を立てることにしました。
そこにはホステスさんはいなくて、ママが妹さんと二人でご贔屓のお客様のおもてなしをしていて、毎日満席で、上品で贅沢で知的なサロンでした。
歳上のナレーター仲間、晴海の展示場で会う自分よりお姉さんの方たちには愛人稼業の方が結構いらっしゃって、ビビりながらも一世代下の私でしたが、なぜか一緒に遊んでもらっていました。
彼らの遊び方は「明らかに間違った無駄遣い」でした。私がしていたわけではないので、観察日記的目線でそう思いながら、どうなるのだろう??と見ていましたが、率直に申し上げて「お金に失礼」でした。
その、お金に失礼なお姉さんの彼氏?愛人?のお友達で、この方はジェントルマンよね、って感じのAさんが公認会計士でその店を担当していて、お店に相応しい子を探しているけれど、僕の周りのアバズレちゃんでは務まらないから「君が最適。君このサロンに務めなさい」と連絡を寄越したので、超びっくり、スカウトされたというより断れなくて行った、というのが本当のところで、怖いところだったらどうしよう、と思いましたが、行ってみたらいい空間で、本当に最適な場所だったなとあの頃のあの場所が好き。
客層、殿方も相当なグレードというか、真のある生き方で意図のある精神で、気骨ある方ばかり。いろいろ弁えているなと私でも感じる空気感が素敵でした。
彼らは、国の未来についてよく語っていました。今でも戻れるならあの空間に行きたいです。この頃は、そんな大人に、全然出会いません。
大学を卒業しても、その店にいました。放送局に受かりましたが、気が乗らなかったので、嘘でしょう?と誰からも言われましたが、ちゃんと務めませんでした。力試し、みたいに就活しただけだった気がします。
昼間は、リクルート関連の広告代理店に勤めました。リクルート自体は、別の会社に買われて、ダイエーだったか、中西さんの会社、記憶があいまいだけれど、下々のものとしては働く空気が全く違う会社に変わったので、そのタイミングで退職手続きをしたと記憶しています。
仕事場は銀座の店に近ければいいや程度の考えで、そう思ったら自動的にそこに導かれました。
今思うと不思議ですけれど、新卒なのに、なぜか常務とゴルフに行くことが多い会社でした。それも仕事、という感じで捉えていましたが、どうでも良かったので、なすがまま従う的日々でした。
なぜか、夜は「おばんざい」?を何種類か作るのが仕事で、それに夢中でした。相当評判が良かったので、腕を振るっていたわ。
田村魚菜料理教室、を伯母がやっていて、料理の基礎を小さい時から徹底して仕込まれていたので、普通に大体作れたので、自分としては、なんでこんなことで褒められるのだろう?くらいの感覚で、そのことを大事には思いませんでした。
結婚して主婦、お母さんになっていく人は、もっとハードルの高い料理を ”さくっ” と作るものだと信じていたので、私には無理、とその道は選ばなかったのね、母親ってとっても大変なこと、というイメージが強くて、子育ては私は難しい、と思い込んでしまった。
重ねて言えば、生まれて来てご迷惑だったんですね、すみません、という感じで大きくなった。親はそんなつもりはなかったのだろうけれど、こちらはそう捉えた、ただ、捉え方は私の自由で、他の捉え方もあるのだから、親を責めても仕方がない、と思えたから、責めたり批判したりする気にはならず、距離を置きたいと思う選択、が私のスタイルだった。
結果、自ずと自尊心低めというか、自己肯定感かなり劣勢だったが、そんなメモリもわからずに、地味に他人の無茶なオーダーに応えていたように思う。
お客様から料理が褒められるので良かったとは思ったけれど、板前さんの免許はないし、同じことを繰り返すルーティンは不向き、と思ったので、料理は自分のために作るもの、という感覚が定着して今に至る。
その店での二つ目の仕事が、季節の絵を選ぶこと。和風の花の絵でしたが、わざわざ画廊に行って決めてくるという担当をしていました。必ず花であることがお題目でした。
いつもあの界隈にいるので、その頃のその街のバックヤード的な人たちとのご縁が広がりました。妹さんは電車で帰る方なので店が終わってママと二人でご飯を食べてからタクシーで帰っていました。バイト代に食事含む、と言ってくれていたのが、負担なくご馳走になれたポイントだったけれど、かなり有り難かった。
当時、私には政治に身を置く田舎の親戚の伯父さんがいて、この界隈では著名な人で、でも私が呼んだら偉い人を放り出して走って来てくれる感覚があった。大体どこにいるかを教えてくれていたので、娘よりあんたのことを可愛がる、と伯母さんにはよく言われていて、その伯父さんからの影響は、今の私の相当な部分を占めているから不思議だ。
伯父さんからは、「お前あの店なら全くを持って本当に良い、すごいな!」というお墨付きも得ていたので、親はどこかに消えたほどの疎遠でしたが、伯父とは交流を重ね、時折招いたりしていた。
世の中は、不思議な縁、に助けられることがあると思う。
その頃、学生時代から変わらず江古田と椎名町の間、ママの家の近くに住んでいまして、引越し代がないからそこの家賃を稼いでそこにいる、という田舎者にありがちなパターンでしたが、
それでも自分より困った境遇の、クラブでピアノを弾く時間的ルーティンが同じ高校の後輩を居候させていたので「甲斐性があったもんだ」この頃は、と振り返っても偉い行いでした。
他人に干渉しない性格だった、その頃の自分が好き。
ママと深夜のタクシーを降りたら、帳簿をつけている間にママが脱いだ着物を手入れして、頼まれた場所を掃除してから歩いて帰る習慣。
今の私にしてみると、昔の自分が手元に欲しい。お行儀良くて、愛すべき存在よね。
銀座の「超高級なママ」というのを絵に描いたような人だったこのママから、ずいぶんいろいろ教わったなと振り返ります。
私に向けて指導というより、小言の多い人でしたから、その小言を通してなるほどなと学んだ、そんな感じ。
美人だったので嫌ではありませんでした。見た目って大事だと思う。それから、匂い。この人から香るなんとも言えない人として選ばれた、みたいな質の良い何かいい香りがする感じが好きだった。
クンクンと嗅いで得られるのとは、また違った言い表せない何か。。。
その当時、今で言えばゴーストライターというか、えらいおじいさんの先生の代わりに、あれこれ文筆業も回って来ていて、ちゃんと書いていました。
ずいぶん書いた。ちゃんと報酬もいただいて、みんな律儀でしたね。今とはずいぶん違う。
ノキアの携帯電話とパームというモバイル端末を手に入れていたので、今思えば鞄が重かったのはそのせいよね。
パームに綴っていたから、電車の中でも字がぶれたりせず、どこでも気がついた時に書く、という今のルーティンの基礎が作れたのよね。
記者のおじさん達は、前出のママと違って『臭かった』。
まぁ、そのおかげで記者クラブに出入りし、顔パスで交詢社やゴルフ場にもくっついて行っていたので、贅沢とわからずに "おまけ" で贅沢を味あわせてもらっていたことを思えば悪くないけれど、臭いの方がその頃の私には重要で、記者クラブは行きたくなかった。
しかし行かない理由が「臭いから」とは言えず、優しい嘘も見つからず、気を病んだ。こんなことで悩むなんて、人生は不思議だ。
そうこうしていたら、24歳になり、店のお客さんの中の番長、みたいな相当偉い70代後半の方に、「もうこの界隈にいると碌なことがないから、一度実家にでも帰って、改めて東京に来たら仕事を紹介してやるから、一旦上がりなさい。」とアドバイスを戴いたの。
このおじさん私と喋るんだ!って驚くほど雲の上の人だったので、
絶妙なシチュエーションとタイミングも重なり、その意見を採用することにしました。
折を見て、キリのいいところで「仕事を辞める」とママに伝えたら、予想通り劣化の如く「今すぐ出ていけー!」となり、
はい、とそのまま静かに出ていった。自分なりの最善。
冬の寒い日だったけれど、コートを取りに行かなかったので、暫くしてからコートがないのと、バイト代も貰えないことに気がついたが、取りには戻らなかった。それきり。壁に貼ってあった私のリサイタルのチラシはどうなったんだろう。
仕事も辞めて、実家に帰るのも嫌だったので、友達の家に居候することにし、不動産屋を訪ねた。
「再来月の家賃が払えないから引っ越す」と伝えると、カウンターの人が奥に移動して、暫くして出てきて、
「じゃあここでバイトしなさい」と言うのでものすごく驚いたら、奥から銀座の店のお客さんが出てきたから、さらに驚いた。
引っ越すのも面倒だったので、そのままその古臭い不動産屋で働くことにした。その不動産屋とマンションの間に大好きな喫茶店があって、その喫茶店に寄るのが楽しみだったこともあり、不動産の仕事はいかがなものかと思いつつ、休みの日や仕事帰りに喫茶店で女性ボーカルのレコードをかけてもらってずっと聴いている、というまた緩い日常が手に入った。
夜中起きていて朝から働く、というのも結構体に悪くて、メンタル的にも夜行性より早寝早起きの方がいいに決まっているから、軌道修正したいなと考えていたこともあり、願いが自然に叶ったのだと思う。ありがとう神様。
その当時、途中で諦めたくなかったのが「ジャズを歌うこと」で、銀座を離れる際に失うことの一つが、ふらりとスイングに寄れなくなる、というのがあったけれど、でも全然生活が追いつかなかったので、大人になってからにしようと決めて頑張らなかった。諦めないために今は諦める、という選択。
とはいえ、なんとなくずっとその世界とも関わったままで、リクルートに行っていた頃に電話で呼んでくれていた歌い手さんのいるクラブの人たちも、気がついたらそういう仕組みも無くなっていて、ジャズより艶歌、みたいな空気も相まって、時はすでに平成で少しづつ昭和も消えていったから、
音楽は聴くだけでいいや♪
と考えることで、不動産屋という仕事を真剣にやってみよう!と気持ちを切り替えられた。そこから、仕事ひとすじ、だったー。
デスマス調の気分ではなくなったので、書き方を変えて先に進みますね。
不動産屋に勤めて、それなりに仕事を覚えた頃に、社長が死んだ。私が勤めてその会社に馴染むまでの半年くらいはお元気だったのだけれど、その後飲みにいった銀座の別のクラブの帰りに倒れて、それから1年入退院し、療養をされていて会社に顔を出すこともなくなり、1年半働かせてもらっての、訃報。
月曜から金曜まで9時5時で働いて、時折、喫茶店に寄って過ごす以外お金を使わない、みたいな生活をしていたので貯金が貯まっていた。
その後、店を他の不動産屋さんに売る、というので、これまたタイミングだよなと別の部屋を見つけるのも面倒だったので、福生で1万円でバイト先から買ったゴージャスな茶箪笥と引き出しを欲しがっていた友達にあげて、それ以外は捨てて、旅に出た。
暫くあちこち旅をして、帰国してからは浦安の広東人の友達の家に転がり込んだ。居候。彼女ではなくルームシェア。彼らには程よい距離感があって、そういうのが普通で、不思議な連携もあって、私には快適だった。
ディズニー界隈のホテルにはまだ広東人の本場のシェフがいて、その華僑の中にしれっと馴染んだ。銀座の今はなき福臨門で働く人たちと行動を共にして、この先どうしようか決まるまで自分もホールで働かせてもらった。
メニューを日本語にするネーミング選びが好評で、気がついたら新規開業の店のメニュー作りを手掛けたり、店のコーディネートなどを依頼されるようになった。店舗の内装にも関わり、店の出店などの手続きにも携わるようになればなるほど、
ちゃんと不動産業務を取得しよう、だな、としっくり思えるようになったので、近所の不動産屋に応募して面接に行った。
もうそこからは、修羅場。本業、引き下がれない、舐めたらいけない、やらないと罪、のような、ドタバタ。なぜか担当が債権回収、買取再販、リノベーション、中古仲介、という世界に足を入れ、そこから必要に迫られてデザイン、設計、管理、コンプライアンス遵守、そして、ホテル改修の世界に進むのだけれど、あっという間の20年、いろんな人に出会って、いろんな人がいなくなった感じ。
責任者、社長としての責務をやり遂げた気持ち。オリンピックの時期に海外の重鎮がステイする部屋をデザインし、コロナ禍で期間延長があって、その間の施工人員のズレ、スケジュール調整、責任の所存、材料の発注、納品、支払い、作らなくて良いけれどオーダーは入っている系のゴタゴタ。
全て証明するための書類を提出する必要があって、そのドキュメント制作もチマチマやりながら、適宜なオーダーを各自にしてクレームも泣き言も聞いて処理して指示して、そして巻き込まれて結局誤解は解けたけれど、その間の人間ドラマにうんざりしてしまい、言葉では表せないガッカリ感が、グレイの心の染みになったなーって、昭和歌謡みたいなことを思ってしまい、
その時ふと、昭和歌謡、いらないな、って思ったんですよね、愚痴泣き言世迷言みたいなやつ。重ねて、嫉妬、ヤキモチ、恨み嫉み、そういうエモーション、いらないなって、いらないなって思ったら、本当に心底、全部いらないなって思って、思ったら、要らなくなってしまって、全く後悔していないけれど、手放してしまった。
手放したけれど、正規ルートでちゃんと始末したから、自分としてはベストを尽くした、できた!という感じ。
でも、こういうことって、不思議と、便乗する人が現れる。
それを自分は、今冷静に振り返ると、過去世の因縁とか、輪廻とか、あるんだなと認められるの。
おかしな言い方だけれど、便乗してきた人が、不思議すぎる現れ方で、ミラクルな近づき方で、そしてさっと刺客と変化したから、その変化の過程が徐々にではなく、音も立てずに、さっと、という感じだったから、あっという間に豹変したから、これは普通じゃない、という関わり方。
しかも、一人や二人ではなく、別々に何人も、同じタイミングでこの時現れたから、只事じゃないと背筋が凍った。
魔が刺すとか、そういう "瞬間芸” みたいなのではなく、長い歴史の中でしっかりじっくり、丁寧に計画された、みたいなシナリオめいた流れ。
もうここから立ち直るって、神技?と思うほどの苦行で、それと同時に溢れるほどの、たくさんの愛と助けを得て今に至りますが、盆と正月が一緒に来たような果てしない長さを感じる時間、を体験しました。
正直、もう無理だ、と思いましたが『何かがおかしい』ということに気づけたんです。うまくまだ示せないけれど、感じたんです。
確実に言えることを記すと、
その時に、和の文化、みたいなことがシンクロしたんですよね。大事だな、と思いました。魂レベルの何か、解いた方が良い想念みたいな、うまく言えないけれど、つながっている系の目に見えない世界について、今一度掘り起こしてみよう、という感覚。
小さい時に、お寺にお勤めの、たくさん修行なさったお坊さんが身近にいらして、父の仕事の関係で、なのだけれど、いろんな 見えない世界 のことをお話しくださっていて、
魂という死んでもお別れしない肉体を離れてもご一緒するものを磨く、ということについて、改めて考えてみようという気持ちに至った。
こういうことは、それっぽくもっともらしくいうのは、怪しい人、というイメージでしたから、自分は三次元の現実社会で普通に目に見える実体経済の中で生きよう、と思っていたんですけど、
そこにいたら、こんなことになってしまった、というなんなんだ?という経験。
そこから、和文化、頭の中に置き去りだな、と考えたので、アウトプットしていこうと、そのサイトの何か骨子、みたいなことを記そうと思ったら、長くなってしまいました。
こんな長い文章をあっという間に書いて、自分のヒストリーと今思うこと、を綴ってみた次第です。なんの意味もない戯言ですが、拝読に感謝です。